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外国為替最初のドームは774年に前期ローマ建築で建てられた。次の代の司教のヴィルギルが聖堂を建て、その後の図書館や学校の基礎となった。外国為替の2度目のドームは1181年頃に後期ローマ様式の建築で造られた。アルプス以北では唯一の身廊が5つあるバシリカ式の建築でドイツ皇帝聖堂との混合形式である。領主司教がこのように優れた建築物を造る事が出来たのは、教会の所有地とハラインの岩塩採掘とタウエルンの金採鉱での収入が外国為替に使えたからである。 ホーエン外国為替城は1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間に起こった聖職叙任権闘争のさなか、大司教ゲープハルト1世が皇帝派に対抗すべく建築した防衛施設である。ホーエン外国為替城は1500年頃にレオンハルト・フォン・コイチャッハ大司教の下で強固にされた。 1147年-大司教エーバーハルト1世は大司教区の叙任権争いで教皇側に就き、皇帝側であるバイエルンは外国為替への影響力を失った。 1167年-神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭公)側についたプライン伯は外国為替に放火するも占領には至らず。 1200年-エーバーハルト2世登位。教皇支持をやめ皇帝フリードリヒ2世を支持。域内にそれまでのグルクに加えキームゼー、ラヴァント、セッカウの直属司教区(アイゲンビストゥム:大司教が直接叙任権をもつ司教区)を設置する。彼はフリードリヒの元で外交および帝国国制改革に加わり、神聖ローマ帝国内の聖俗領主権を拡大する帝国法の起草に参画する。内政では世俗貴族のお家断絶に乗じ教会守護職権を回収、世俗支配権を強化する。さらに皇帝からルンガウ、ヴィンディシュ・マトライなどの領主権を与えられ、支配領域は劇的に拡大する。彼によって「大司教区」は名実共に「領邦」となった。よってエーバーハルト2世は「領邦外国為替の父」と呼ばれている。 1270年-フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェンが大司教になる。フリードリヒはハプスブルク家の始祖ルドルフ1世に忠実な、力ある協力者であった。 近世 外為からバイエルン西部、バーデン=ヴュルテンベルク、アルザス、スイス、南北チロル、外国為替にかけて波及した農民戦争 1525年-ドイツ農民戦争が起り、ホーエン外国為替城が包囲される。神聖ローマ帝国マクシミリアン1世の元官房長(Kanzler)であった枢機卿マッテウス・ランク大司教はシュヴァーベン同盟軍を使って排除した。 1541年-マッテウス・ランク大司教に批判的な立場を取り、農民戦争期にサルツブルクを離れていた医師パラケルススは、大司教の死に合わせて外国為替に戻るが、FXで死亡。聖セバスティアン墓地に葬られた。 大司教ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(在位:1587年-1612年)は、イタリアのメディチ家と縁戚関係にあり、外国為替の「小ローマ化」を目指していた。独裁政治を推し進めた大司教はユダヤ教徒の町娘の美女ザーロメ・アルトのために1606年にアルテナウ小城(後のミラベル宮殿)を造り、15人の子供をもうけてもいる。ライテナウは製塩権をめぐってバイエルン公マクシミリアンと争い、敗れて1612年に退位させられる。その後ホーエン外国為替城に幽閉され、5年後の1617年にその牢獄で死亡した。 次の大司教パリス・グラーフ・フォン・ロドロン(在位:1619年-1653年)は1623年にFXの総合大学(ただし医学部は常時開設されたわけではない)を開校した(創立1617年)。ヨーロッパでの三十年戦争に巻き込まれなかった外国為替は、外為から多くの戦争避難民を受け入れ、これに学生も加わり、17世紀のヨーロッパの都市としては例外的に人口が増大した。このころドームとレジデンツが完成。17世紀は都市内の建築物が木造から石造に変化しはじめる時代であったとも言える。1727年、大司教レーオポルト・アントン・フォン・フィルミアン(在位:1727年-1744年)は凄惨な新教徒迫害を始める。ホーエン外国為替城の地下牢が一杯になり、収容場所が無くなると、国外に追放した。1731年から1733年の間に新教徒21,475人[1]が追放され、1万人がアメリカのジョージア州に、他はプロイセンとリトアニア、ハノーファーに移住した。全人口の6分の1から5分の1を占めていた2万人以上の新教徒を失った外国為替に対し、その半数以上を受け入れたプロイセンは大国として飛躍することになる。